2007年05月14日

美輪明宏さんが好き

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本の歌手、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学付属高校中退。愛称はマルさん。 1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。また、曲の作者名は本名名義である。
歌手 丸山明宏
1952年、17歳の時に銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』と専属契約し歌手デビュー。
1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のYシャツなどを身に纏うユニセックスファッションと、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。
三島とのエピソード 「丸山君。君には一つ欠点がある。それは俺に惚れないことだ」
「衣装革命」と称し、始めたこの活動も当初は世間から冷遇され、全国紙に「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が掲載されたり、見も知らぬ人から石やビール瓶のふたを投げ付けられもしたと言う。(しかし近年ではヴィジュアル系の元祖「美輪様」として大いにリスペクトされ、ゴスロリ系雑誌にインタビューが掲載されるほどである)
『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化し、その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表(カミングアウト)した事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。
そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続いた。 しかし1963年には中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く等、徐々に理解者が現れ始め、翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。 1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃。こうしたことから「日本のシンガーソングライターの元祖」と言われている。(ウィキペディアから)

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Posted by merry at 21:46│Comments(0)占いの泉
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